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本日(2014年2月10日)のGoogleのトップイメージは「平塚らいてう生誕128周年」を記念したものでした。

横顔のらいてうが手に持つ雑誌「青鞜」のブルーが印象的な図案ですが、実はこの「青鞜」創刊に三秀舎が関わっていたということで、ご紹介させていただきます。

青鞜の創刊前後

らいてうの自伝「元始、女性は太陽であった」 [1] に1911年8月、「青鞜」創刊前後の回想が記されています。

事務日誌 八月八日
「荒木氏より戯曲の原稿送附ありたり。
木内氏を訪ない精美堂の見積書を貰ひ、三秀舎に行き印刷の見積を頼みてかへる。
中野氏千葉に立つ。」(p.321)

「このとき印刷屋からとった見積はどこも同じようなものでしたが、「白樺」や「スバル」の印刷がきれいだということで、他より幾分単価が高かったのを、結局その印刷所――神田の三秀舎に頼むことに決めました。」(p.323)

「校正はわたくしと保持さんが中心となり、中野さんが最初手伝ってくれました。なにしろはじめてのことで、活字の大きさも、校正のやり方も分からないのですが、中野さんに教えてもらったり、三秀舎の人から教えてもらったりしながら、楽しくやったものでした。こうしてやっているうちに、わたくしもだんだんと、このあたらしい仕事に気が入ってくるようになりました。」(p.324)

「暑いさなか、神田三秀舎の二階で汗を拭きふきやった校正も全部おわって、ついにわたくしたちの「青鞜」創刊号は世に出ることになりました。部数は千部、頁数は広告を抜かした本文百三十四頁、定価一冊二十五銭でした。」(p.325)

印刷所を三秀舎に決めた理由が「品質」であったこと、また雑誌を作る中で三秀舎がきめ細かに対応していた様子が伝えられていることは100年を隔てた遠い後輩である我々にとってもうれしいことで、仕事に対する気持ちを引き締め直す助けとなっています。

「青鞜」編集後記より

青鞜の編集後記には誤字や締切の問題といった実務雑感も綴られており、いつの時代も編集現場の苦労は変わらないなと感じます。

「一生懸命には試みましたものゝとかく此道には新米の事とて前号などには余程活字に誤謬が御(ママ)いましたさうで皆様へ対しまして誠に御申訳も御座いません。其他体裁等も追々馴れて参りませうと存じますから何卒お目寛やかに。」 (明治44年10月号)

「新年号は印刷所の方から非常に急がせられた為、俄に〆切を操上げて、皆さんに済みませんでした。止むを得ず電報で御驚かせするやうなことまでして。」 (明治45年1月号)

「青鞜は誤植が多いので名高いさうです。最初は慣れないうち慣れないうちと云って居られましたが、もう満一年にもなればそうもいへますまい。自分の子供のアラさがしも苦しいことだが、少し暇だつたから七月号の「同窓より」の中の誤植を拾つて見ました。」 (明治45年8月号)

 

青鞜創刊号の奥付

青鞜創刊号の奥付

関連書籍



  1. 平塚らいてう「元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝 上巻」、大月書店、1971年 []